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シングルパパ雪次郎の部屋

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写真の腕はまだまだなので、デジカメで被写体を沢山撮りまくって奇跡の一枚を探す。その確率は50枚分の1枚くらいのような気がする。残りの49枚を気前よく削除できるかどうか。それをクリア出来た時、おいらみたいな人間でもいい写真は撮れるような気がする。

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2010.1.2 子供を育てるのが上手な人々

P1010003.JPG世の中には子供を育てるのがうまい人々がいる。
自分もなんとかうまくなりたいと思っている一人なのだが、なかなかどうして、思うようにいかなくて、毎日自分にイライラしか覚えないというのが本当のところで、毎年一年生であるということをいやでも思い知らされる。
自分は子供を、たった一人しか育てていないし、また現在進行形であります。
娘を育てる過程では両親にも協力をしてもらったし、兄弟や親戚、その他、いろんな人の手を借りてきた口なので、子育てに関して書き込みをすることは、ちゃんちゃらおかしな話しで思い上がりもはなはだしいと、大きな声で笑われたり、怒られたりしそうな気もするのだが、自分が感じたことを書き留めておくことは、将来の娘に対しても、また同じ立場の親達に対しても、ある種の義務のような気がする訳でありますゆえ、参考になると言う方のみに心に留めていただければという言い訳を最初に立ててしまえば、少しは気が楽になるような気がしております。

でもそれはそれで意味があるような気がしてしょうがないため、つたない文章の書き込みを最後まで、がんばってみようかなどと思っております。

それでも世の中には子供を育てるのがうまい大人が確実に存在しているのではないか。そんな風に思うのです。
かなりの割合でいるように思うのであります。
脳ある鷹は爪をかくすの如く、そんな人ほど、前面にしゃしゃり出てくることをしないため目立たないのであります。
誰がうまくて、誰がヘタなのかの感じ方は人によって異なること当たり前なのでしょうが、偏った私見の書き込みで終わってしまいそうな気がするのではありますが、自分が実際に目撃した例を挙げてみるとこんな風である。


こんなお母さんがいた。
狭い路地を親子(母と子)2人で歩いているとする。向こうの方から車がやってくる。
でも そのお母さんは危ないという理由で子供をかばおうとしない。というか車とすれ違う瞬間もかばおうとしない。
もし子供が車と接触し危険な状態になりそうだったら ひとたびそうなりそうだったら、子供の体を安全な空間に引っ張りこめる動作をすぐさまできるようにだけ気を張っているというのだ。
もし何かあったらすぐ引っ張れるようにだけ気持ちを入れておく。
でも大抵の場合、子供は自分でちゃんとうまいこと危険を回避する行動をとるというのでる。
なんでそんなことをするのか、自分で危険を回避できる習慣を身に付けさせたいためらしい。
ただ、完全にほったらかし状態だと、ドライバーさんに余計な気を使わせて迷惑をかけるため、近づいて来る車のドライバーさんに対しては「ちゃんと子供を見張ってますよ」というアピールだけは忘れないという。
また瞬時にドライバーさんの目を見て、ドライバーさんが前方に気を付けて走っているかどうかのチェックも忘れないらしい。
これは保育所に通う子供を持つ親の話しだった。
それから数年して、このお母さんの子供さん達が大きなショッピングセンターの駐車場で車が往来する中、
そんな中を走り回っているのを自分は偶然見たことがある。
自分の率直な感想はこうだった。

へぇ!と思った。

とても安心してその子供達を見ていられたからである。
全く心配する必要が無いほど、子供達は普通に何事もなく、まるで森の中を駆け回る小動物のごとく、周りの危険をうまいことひょいひょい回避しながら駐車場の中を走り回っていたのである。
もし自分がこの子達の親だったら、神経をすり減らす必要のないほど成長してくれた子供達に感謝するだろう。
この子達はこれから将来、激動するこの危険な車社会の中で間違いなくうまいこと社会と共存していくことになるだろう。
またそんな術(スベ)を親に仕込まれたことになる。
狭い路地で向こうの方から車が見えた途端、すぐ安全を確保しようと行動してしまう当時の自分に耳の痛い話しだった。
このお母さんの深い深い愛情に目から鱗がはがれる思いだった。
愛情とは、なんにも難しいことではない。こういうことなんだなぁと考え方を修正させられた。

 ある公園でこんなお父さんがいた。
小学校に上がる前くらいの年頃だろうか、とてもやんちゃそうな男の子達の3人組が滑り台を占領して遊んでいた。
回りにも大勢親子連れがいたのだが、その男の子達はあまりに乱暴な感じだったので、誰も滑り台には近づこうとしなかった。
傍らで3歳くらいの女の子が一人で遊んでいた。後で分かるのだが、その女の子はお父さんと遊びに来ていたのだった。
その公園には小屋みたいのがある。おうちゴッコをするために設置された、子供が4人座りできる屋根の付いたミニ小屋である。
一人でおうちゴッコがしたかったのだろう、女の子が一人でその小屋に入り座った。
それを見た男の子3人組は滑り台遊びをやめ、その小屋にドカドカと入りこんで行った。
やんちゃ3人組は女の子を取り囲んだのだった。
なので一瞬緊張が走った。
そのお父さんは近づいて行き、小屋の中の様子に耳をそばだてた。自分も目をまんまるにして様子を見た。

「お前さ さっきから俺達のこと見てるけどさ なんなんだよ ん?」と、取り囲んだ中のボス的な男の子が女の子に乱暴に尋ねた。

「…………」

「さっきから 俺達のこと ずっとみてただろ! なんだってんだよ おい!」

「…………」

「おまえ どっからきたんだよ? おい どっから来たって聞いてんだよ?」と、男の子の質問はイライラしてくる。

「…………」

「お母さんは? お母さんはどこにいるんだよ?」

「いないよ…」

「………… えー! お母さんいないのかよ んじゃ どやって帰るんだよ! どうやって帰るんだよ おい!」

要するにこの男の子達は女の子のことを心配してくれるやさしい子達だったのだ。
小さい女の子がポツンと一人で遊んでいたので、迷子になって自分達に助けを求める視線を送ってきたのだと勘違いしたのだろう。
自分が感心したのは、その間、そのお父さんは何もせず、黙って耳を傾けているだけだった。
最後にお父さんがニコニコ登場すると、男の子は 「なんだよ お父さん いたのかよぉぉお!」と天を仰いだ。
感心した。
全くをもって感心した。
自分も含めて一般の親だったら、取り囲まれた時点で目を三角にして我が子をかばおうといたたまれない行動にでるように思う。
色眼鏡的な行動は男の子達に「ちぇっ!」という気持ちを与えてしまうだろうし、またそんな大人のズレた行動が悪の道への招待状になってしまうのかもしれないし、女の子にしても、こわいお兄ちゃんだというイメージしか残らなかっただろうし、男の子にとっても、女の子にとっても、よかったことをこのお父さんはしたのではないだろうか。
というか何もしなかったというべきだろうが、、。
こんな何もしない姿勢というか待ちの姿勢を親である自分達は教訓にしなければならないのだと、そう思った。
大人の行動は次の一言、次の一行動があってからにする、そのギリギリまで待つというこのお父さんの姿勢は自分も肝に銘じまければならないと思い知らされたのである。


 保育園時代の時、こんな母親がいた。
子供が朝ごはんを食べてくれない。
どちらかというと虚弱体質なので、栄養を入れてあげたい。
割とよく聞くお母さんの悩みだと思うのだが、あるお母さんがとった考え方と行動は一般の人とは違っていた。
その子供は公園でお母さんと遊ぶのが大好きだった。
だからこのお母さんは一時間早く起きて朝ご飯の前に公園に連れて行き、子供を遊ばせた。
いつもは やっと起きる子供らしいのだが、「公園に行くよ」と、言うとすぐに起きるらしい。
一時間くらい遊んでから家に帰り、食卓につく。子供はお腹が空いているので、ほっといても食べるというのである。
このお母さんの言うことはユニークだった。
消化吸収力の無い子に、何を食べさせてもあまり栄養にならないのではないかというのである。
食欲の無い子に無理やり食べさせても、どんなに愛情を込めた手作りのものを食べさせても体を通過するだけだというのである。

逆に消化吸収力のある子は極端に言うと水からでも栄養を吸い取る、(水には燐、マグネシウム、鉄、ミネラルなどの栄養がある、でもだからといって水だけ与えていればいいということではむろん決してないだろうが)、何を食べさせるかはもちろん大事なことなのだろうが、いかに「お腹がすいた!」と子供に言わせるかがその何倍も大事なことではないかとそのお母さんは言うのだ。
ちなみにこのお母さんは決して暇な人ではなかった。
働いている方だった。
これを聞いて自分もまねした。
うちも当時、子供が朝ごはんを食べてくれなくて実をいうとほとほと困っていた。
正直言って朝一時間早く起きるのは当時の生活環境の中ではかなりきつかったが、このお母さんに触発されてがんばってみたのである。
このお母さんのように毎日朝早起きすることは正直言うとできなかったのだが、でもかなり改善することができたような気がする。
公園で、朝遊んだ日は食卓につくやいなや食べ物に自分から積極的に向かっていくようになってくれた。
行動が能動的に変わっていく娘の様子を見て、もう涙が出るほどうれしかったのを覚えている。
これによって自分にとっての悩みはかなりの割合で無くなったのである。
なのでありがたくてしょうがなかった。
このお母さんはこんなことも言っていた。
子供が晩御飯も食欲がなかったら、こうすればいい。
できた物から順番に食べさせればいい。そうすると子供は絶対量を食べてくれるようになる。
食べ物が全部出揃って、家族全員が食卓に付き、「いただきまーす」の儀式をやってから食べなければならないというのは、我々大人が持っている勝手な固定観念すぎないのではないか、と。
でもその儀式は子供が言葉や感情が発達した 例えば小学校に上がってからやっても遅くないのではないのか。
全員で「いただきまーす」の儀式は消化吸収の弱い子供にとっては、食物を一度に平らげなければならないという強要になっているのかもしれない。
あと あたりまえだが、絶対に食べられない量を出すより、絶対に食べられる量を出すようにするべきだと。
常に完食することの達成感を味わわせてやるべきだと、小学校に上がる前の子供が絶対に食べられる食べ物の量というのは、大人からみると、「えっ!」と思うほど実は少ない。
少ないよりもっと少ないかもしれない、と。
「えっ!」と思うほど、ちょびっとから始めればいい、というのでる。
もし 足りなくておかわりを要求してくるようであれば、我が意をえたり、「待ってました」とばかり自分の分を喜んで与えればいいのだ、と。
 またこうも言う。
子供が食べたくないなら食べさせなきゃいい、というのである。
お腹がすいたら、黙ってても子供はちゃんと「お腹がすいた」と言ってくる。
その時食べさせればいい、と。
その食べ方のリズムは大人のそれとは全然違うのかもしれないが、成長するにつれ自分の家のリズムに調整していけばいい、
それを調整するために親がいる。でもよっぽど理解のある旦那さんでなければ無理なのと、
親と一緒に同居してる場合などははむずかしいかもしれない、と。
実はうちもこのお母さんの考え方を目から鱗がはがれた思いで その日のうちから全面的にそんな考え方を取り入れ行動に移した。
うまくいったこと、そううまくはいかなかったこと、いろいろあったが、このお母さんにいまでも感謝しているのはむろんである。

 娘が3歳くらいの時だった、当時は仕事が忙しかったため子供の面倒をあまりみてやれなかった時代だった。
なので、夜寝るとき、娘が「読んでくれ」と持ってきた絵本は必ず読んでから寝るようにしていた。
そのうちおもしろいことが分かった。1冊しか持ってこない日もあれば、10冊以上持ってくる日もあった。
1冊しか持ってこない日は自分でいろいろ気持ちを解決できたんだなぁと思い、10冊以上持ってくる日は、さびしかったんだなぁと感じた。
なので、どんなに疲れていても眠たくても、娘が布団の中に持ってくる絵本は必ず読むことにしていた。
娘が持ってくる絵本の冊数は、その日のさびしさのバロメーターに思えたのである。
そんなこんなだったので、よく絵本屋さんに絵本を買いに行った。
自分が住んでいる町には子供用の絵本や書物を専門に販売している本屋さんがある。
店名は「こども富貴堂」という。ありがたい本屋さんである。毎週のように、ここに買いにいった。
店員さんは1人だけだった。一般の主婦の方みたいだった。
毎週行くので我々の顔を覚えてくれたのだろう。
私が、娘に「どれ買う?」、などと聞く。

「え?なんだよ!こんな赤ちゃんが読むような本を買うのかよ!もっと違うのを買ったらは?」

などという、そんな我々親子のやりとりを聞いていたのだろう。その店員さんはとても丁寧にこう教えてくれた。

「子供は絵本を選ぶ時、自分の年齢よりも幼稚なものを選ぶ。

 でもそれはそれで自分で読みたいものを選んで読むということはとても大切なことだし、買って失敗したと思うことも大切なことなので、それはそれで買ってあげればいい。
 逆に大人がそろそろ読ませたい本があるとする。
 例えば、「うまかたやまんば」とか「3匹のヤギのがらがらどん」とか、大人がそろそろ読ませたいなぁと思う本は、
 子供は大抵「嫌だ」と言うもんなんです。だから大人がそろそろ読ませたいなぁと思った絵本は、子供に相談しないで買う。
 子供に相談してはダメなんです。
 もし子供が「そんな本を買うのは嫌だ」と言うようであれば、

 「これはお父さんが自分で読むから買うんだよ!」と、言って買えばいいんですよ。

 つまり絵本屋さんに買いに来る時は

最低でも2冊買うつもりで来店されたらいいんですよ。」

こう思った。
一冊だけ買おうと思っている自分に苦言を呈してくれたのである。
集中して一点買いしようと思っているお父さんに危険な匂いを感じてくれたのだと思う。
世の中には自分には知らない事が沢山あるんだなぁと思った。
絵本は買うのにはコツみたいのがあったのである。自分が恥ずかしかった。
教えてくれた店員さんに抱きついて感謝したかったがもちろんしなかった。(笑)


 小学校に上がる前の幼児が風邪とか食あたりとかになって気持ちが悪くなり嘔吐する時、子供は大人のように上手に嘔吐することができない。
嘔吐することに慣れてないため、吐瀉物(としゃぶつ)をのどにつまらせる場合がある。
それを避けるため、親が子供の正面に陣取り 向かい合って子供と同じ目の高さまで体勢を低くし、両手の手のひらでおわんの形を作り、「さ ここに吐いていいよ」とニッコリ笑うと、子供はなんだか安心して体の力が抜け、そのため吐瀉物をのどにつまらせずに かなり楽にうまいこと胃袋の中身を吐き出すことができる。
そんな話を聞いたことがあった。
自分もマネした。その話は本当だった。
うちも娘が幼児だった時の話だが、娘が気持ち悪くなって、

「おと(お父さん) ゲェしたい ゲェしたい」と言うと、目の前で手でおわんを作ってやった。

うまいこと吐いてくれたこともあったのだが、時には勢いあまって、顔にぶっかけられ(笑)、衣服は吐瀉物だらけになったこともあった。
でも 親の立場から見れば、子供がのどをつまらせなかったことに対してホッとして思わず目がうるみ微笑んでしまう。
子供にしてみればドリフターズのコントさながらに、目の前で親がゲロにまみれで微笑んでいる様子がおかしくてしょうがないのだろう、
そんなことに子供ならではの笑いが込み上げてきて、気持ち悪くてしょうがなかった真っ青な顔に赤味が走り、満面に笑みがもどる。
そんでもって親子2人はなんだか分からない笑いの壷にはまり、ゲロまみれの親子が、しばらくその場所で笑いが止まらない状態を経験するのである。
自分の場合は無粋な男なので嘔吐物や汚物等はもともと全然平気なため、そのたぐいの経験というのは正直言ってへっちゃらだったのだが、でもこれを女性がやっているのを見たことがある。

あるスーパーの入り口で笑い合うゲロまみれの母と息子を見たことがある。
やはりそのお母さんは低姿勢で子供に手でおわんを作っていた。だが、勢いあまって顔から衣服から吐瀉物だらけになっていた。

話しは変わる。

仕方がないことなのだろうが、保育園でどんなすばらしいと言われている保母さんでも、年齢が若い保母さんになるとどうしても、汚物に対しては生理的な嫌悪感が生じてしまう。
それは仕方のないことなのだと思う。「生じるな」と言う方がもともと無理な話しだとも思う。
また園内でも子供の汚物の処理に関しては衛生管理上、ゴム手袋を着用して処理するようなマニュアルになっているのだろう、でも子供というのは自分の汚物を保母さんがどう処理するかを実はしっかり見ているのだと思う。
保母さんの目くばせやさりげない仕草などから大人の若い女性特有の生理的な嫌悪感の電波を子供はキャッチする。
感受性の高い子供ほど受信する電波のボリュームは強くなるだろう。子供なりに若干傷ついているのかもしれない。
でも子供はそれはそれで他人と肉親の違いをなんとなくだろうが区別するようになる貴重な学習をするかもしれない。
自分の汚物を微笑んでくれる存在はこの世で親しかいないのでる。

自分が見たゲロにまみれたその時の母親も微笑んでいた。
子供からするとゲロにまみれた向こうで母親は微笑んでいる。
だが、その子供はそんな尋常一様でない目の前の親に対して、だからこその信頼の絶対性を置くようになるのではないだろうか。
これから先、親子の信頼関係も 大げさかもしれないが未来永劫、どこかで必ず繋がったまま時間が流れていくのではないだろうか。
そんな信頼という絶対的なベースに支えされて この親子は今後、共に生活していくこことなる。
この子が将来大きくなって、よしんば反抗期になろうが親に悪態をつくようになろうが、でもそんなことはこの親子にとってはどうでもいい 一過性のちっぽけな現象でしかないのかもしれない。
心の底でちゃんと繋がっている親子は例え何があっても動揺する必要などない程、信頼という特殊な性質の糸で結ばれているのだといえるのではないか。
この母親を「子供を育てるのが上手」と言わずしてなんというだろう。
いつも愛情が子供の方にしっかり向いている母親でしかこのような行動はとれない。子供の方にしっかり向いていない、フラフラした母親はこのような行動はとれない、そう断定できるだろう。
愛情の矛先が子供ではなく自分の方角に向いているお母さんだと上記のような場合、子供に吐瀉物をぶっかけられた場合どんなことになるのか、これもまた目に浮かぶようである。
子供はゲロの向こうで微笑む母親が発する電波の周波数にチャンネルを合わせようとするのだと思う。
そんな母親の愛情は万歳するほど分かりやすい愛情なため子供にとってチャンネルを合わせやすいのである。
しかしどうだろう、
自分の子供の吐瀉物に嫌悪を感じる親に対してはどうだろう。
そんな電波を発する親に子供はチャンネルを合わせることが出来るのだろうか?
子供を愛するふりをすることだけが上手な、そんな親が発する周波数や、子供に愛情を注ぐ自分自身そのものに興味が向いてしまっているために、結果、子供に愛情をなーんにも注げていない親の周波数や、子供がかわいい かわいくてしょうがない、そのかわいいという感情が愛情の実態だと勘違いしてる親の周波数、
子供が朝から晩まで必死になってやってる作業は親の周波数にチャンネルを合わせることなのではないか。
ひょっとすると子供は命がけでそのことに神経をすり減らしているのかもしれない。
いつもいかなる時でも、親に愛を希求してくる。
親が発する電波が本物で その電波に対し一発でチャンネルを合わせられる子供こそが幸いなのではないか。
問題はそうでない子供である、そうでない子供はゆれる電波のありかを模索しなければならない。
微弱な短波放送を受信するごとく、ノイズ混じりの弱い電波に感応するしかない。そんなノイズが心のざわざわを生じさせ、得もいわれぬさびしさを共振させてしまうのではないか。

電波が微弱なためオロオロ探しものをせざるをえない子供はいつもさびしいのである。
親がしなければならないのはきちっと電波を発信することである。
それは言葉ではなく、能動的な思いでもない。「抱きしめる」というわざとらしげな動作でもない。
もしかすると、親の愛とは、人間の心臓を動かしている自律神経の信号のように、自分でも気がつかない意識の下で、一定のリズムで安定して振幅運動するメトロノームみたいなものではないだろうか。


 あと「子供を育てるのが上手な人々」とは反対の人々だと思うのだが、子供の言葉を平気で奪う人々がいる。
水を飲みたいのか、牛乳を飲みたいのか、お茶を飲みたいのか、子供が自分で言葉を発して意思表示をするまでちゃんと待ってやれる親も多くいてくれているのだと思うのだが、

「水? 牛乳? それともお茶?」

子供にうなずく訓練でもさせているのだろうと思うほど、子供の言葉を先取りしてしまうタイプの親があまりに多くないだろうか?
子供に向かってものを尋ねているのに、先に親の方が答えてしまうタイプの、そんな親である。
子供の言葉を先取りしてしまうと、当たり前だが子供はどんどん物を言わなくなってしまう。ヘタすると言語障害が起きてしまう。
能動的に「しゃべる」という行為をしない子供に変わっていくから、当然、人とコミュニケーションがまともに取れなくなっていく。
いわゆる社会性がどんどん無くなっていく。
ペラペラしゃべらない無口な奥ゆかしい子供というのも中にはいるだろうが、そんな性質的な違いを通り越したケースのことである。
知的障害を持っていないのに、同級生と雑談もロクにできない子供が今はとても多いというのをご存じだろうか。
昔も確かにそういう子供は存在していたのだと思うのだが、昔の比ではないと思う。
かなりの割合でクラスの中でうまく話が出来なくて、その結果、苦しみ悶えて、七転八倒の思いを味わっている子供が沢山いると感じているのは自分だけなのだろうか。
クラスメートとうまく話しが出来なくて苦しんでいる子供の七転八倒にその親は気づいていない。
苦しみのカラクリを理解できていないからである。
言葉を奪う親というのは、子供が気づく前に自分が気づいてあげられる、よく気がつく親でいることに得もしれぬ満足を抱いてしまい、子供の言葉をことごとく奪ってしまう。
もしかするとそんな過干渉的な行為は親自身の根底にあるさびしさに起因するところ大なのかもしれないが、どちらにしても、それは子供を愛しているのではなく、自分自身を愛してしまっていることに他ならない訳で、自愛そのものであり自慰行為そのものである。
そして親の本人にその自覚が無いことが、問題を水面の下へ落としこんでしまっている。
親の自慰行為のとばっちりを受けてしまっている子供の災難である。

残酷な言い方かもしれないのだが、そういう子供はまずをもって仲の良い友達関係をこしらえることができない。
できる訳がない。コミュニケーションをうまくとれないからである。
学校は一つの激動的な社会である。
子供同士でバカにし合って笑いに繋げることもあるだろうし、S的な子とM的な子とそれぞれがうまく共存して、その中で笑いあうネタを共有しあって毎日をすごす。自虐ネタやいじめネタはギリギリを追求するから、お互いがおもしろい訳で、痛烈な言葉のやりとりも当然ながらある。毒舌な言いまわしもでる。
仲が良くなればなるほど言葉は間接的でなくなる。
子供は杓子定規な関係から脱却して、本当に仲のよい友達関係を作りたいために、言葉のやりとりはある意味で暴走していく。

学校とは暴走する言葉社会なのでる。

なので言葉を奪われて育った子供さんにとって、学校生活の中で自分の居場所をこしらえることは実をいうと並大抵のことではないのである。
大人に言葉を奪われた子供が学校に通う姿は、ポンコツな船で荒海の中に船出するのと同じなのである。
クラスメートに「バーカ」と言われて、その言葉をうまく消化できたり、うまく切り返したり、反対にそれをきっかけに仲良くなる方向にもっていったりする力は、男の子でも女の子でも、しつけと同じで、小学校高学年までに親が子供につけといてやらなければばらない大事な大事な能力なのである。
最悪のケースは「バーカ」と言われて、親の手をかりなければならなかったり、もっと最悪なのは、親がそんなことで学校に苦情の電話を入れたり、でも、その結果どうなるのか。クラスメートはその子に近づかなくなる。
やっかいだからその子に近づかなくなる。クラスの中でその子の正体を意識しなくなるのである。
シカトやいじめより怖い結果がそこには待っている。存在そのものがクラスの中から消えてしまうのである。
いわゆる半透明な存在になる。自分の居場所が無くなるのを通り越して存在しなくなってしまうのである。
死ぬよりもつらい毎日を子供は学校で過ごさなければならなくなる。
極端な言い方をすれば、悪意のある友達からいじめられているうちはまだましなのである。
善意なクラスメートからも存在を意識されなくなることは死ぬよりも辛い時間を過ごさなければならないのと同じなのである。
それにより、思い出多きはずの学校生活は一転して暗たんたるものになる。
苦痛な日々の連続になる。孤独と戦いながらの毎日を過ごすことになる。
かわいそうに、それは親よって言葉を奪われた子供の亡霊のような姿なのである。

一般の親御さんはその「子供が物言わなくなる」というそんな現象のからくりを理解しているため、大抵の親は肝心なところはすぐ口にチャックし黙っていられるくらい気がきく行動をとることができるようだが、これを全くしない親が最近多くなってきているような気がするのは自分だけだろうか。
例えば、ある親子が病院で診察室に入り、先生が子供に向かって物を尋ねているのに、間髪入れず、先に親が答えてしまう、そんな光景を見ると、自分には、この親は子供を虐待しているとしか思えないのである。
子供が何かを探そうとしているとき、大抵の親は「ここが肝心」と思って、黙って見ていることしかしないだろう。
黙っていた方が物を考えるようになるからである。しかし、言葉にしなくてもいいことを言葉にし。

「何? サイフ? 鍵?」などと、子供の思考を停止させてしまう行為はどう考えても虐待しているとしか思えない。

それは暴力を肯定する親と同じ価値観でしかない。
毎年、自殺者が増えている。ニートも引きこもりも、全てが親のせいだとは思わないが、言葉を奪う親が増大していることと無関係だろうか、愛情が子供に向かっているのではなく 、自分に向かってしまっている、
そんな風に愛情をはき違えている親の増大と無関係だろうか。


またそういったコミュニケーション傷害に陥った子供が大人になって、自分の欠陥に気づき、このままでは社会に適合していけないことを仰天自覚し、
一生懸命に自分のコミュニケーション傷害を克服しようとする様子をよく見かける。
ぶつぶつ独り言をいったり、空気の読めないタイミングで発言して周り人に目を見合わせられたり、その雰囲気を知って、それに対して自虐的な反省をしたり、ここぞとばかりに冗談を言った後の、いわゆる「すべり」に対して、死にたくなるくらいの被害妄想に陥ったり、そんな痛々しい光景を目撃するとこちらは目を覆いたくなるだけである。
まるで中枢神経に傷害を負い、体の自由が利かなくなって、それを克服するべく、毎日トレーニングに励んでリハビリをする、そんな人の姿とどうも重なって見えてしまうのである。
そんな人間を見るとその人間を育てた親に対する怒りも沸いてくるし、子供に対する同情とがごっちゃになって、とにかく心の中で頑張れと言うお手伝いしか自分にはできない。


 以前、娘と一緒に娘の友達の家まで車で迎えにいった。
たまたま私も娘と一緒に玄関まで行った。
友達が玄関から出ようとする時、そのお母さんは、小学校5年生の自分の娘に向かってこう言った。

「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」

すると、娘(娘の友達)は大声でこう言った。

「うるせー ! クソババアぁああ!」

普段、そんな言葉を口にするような女の子ではなかったのだが、そう発した。
周りはみんな氷ついた。むろん自分も氷ついた。
一見わがままな娘に手を焼いている母親の苦労がしのばれるような光景だが、しかしどうだろう。
自分はそれを見てこう思ったのである。
このお母さんはいつも子供に、

「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」というたぐいの言葉を無神経にかけているののかもしれない。

その言葉をかけられて、子供は、

「あ そうだわ お母さんの言う通り、ジャンバー着ていかなきゃ!」と言う子供だとすれば何も問題はないのだろう。

しかし、

「あ そうだわ お母さんの言う通り、ジャンバー着ていかなきゃ!」と言う答えが返ってくるタイプではない子供に対して、

そういう子供に対して、お母さんがこの言葉を発していたとしたらどうだろう。
このお母さんは確信犯以外のなにものでもないのではないか。自分はそう思う。

「あ そうだわ お母さんの言う通り、ジャンバー着ていかなきゃ!」と言う答えが返ってこないのが分かっていて、

「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」 という「親ごっこ」という自慰行為を子供に浴びせているだけである。

子供は親の自慰行為を浴びせられて、その自慰行為が気持ち悪くてしょうがなくて、「うるせー ! クソババアぁああ!」と拒絶しているのである。
このお母さんが発する行為は、愛情でもなんでもない。申し訳ないが自分はそう思う。
このお母さんは、子育てゴッコをしているだけである。
子育てゴッコをしている自分に興味の矛先が向いているだけでる。
「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」とい、う一見親らしい、言葉にする必要のない言葉を発することにより、愛情のベクトルが自分に向いてしまっている自愛の心をくすぐっているにすぎない。
いわゆる自己満足のために言葉を発しているにすぎない。

「子供の事を心配して何が悪いんだ!」、という反発が予想されそうな偏った私見だと言われるのかもしれないが、

なんでこんな書き込みをするのかといえば、自分にはこれは虐待にしか思えないのである。
こういう親は子供に暴力を振るっているのと同じだと思う自分はうがちすぎだろうか。
子供の心に傷を負わせている、とんでもないたちの悪い虐待である。
むしろ腕力にものいわせる実際の暴力よりもたちが悪くないだろうか。

「うるせー ! クソババアぁああ!」という言葉は、虐待から逃れたい子供の肉声にしか聞こえないのである。

この子供は親に、言葉にする必要のない事柄を言葉にされ、それを愛情だと勘違いしているズレた感覚を浴びせてくる、親のそうした一連の行為が嫌で嫌でしょうがないという感受性の持ち主なだけなのである。
だとすれば、ある意味すばらしい感受性なのではないかとも思えるのだが、乱暴な言い方かもしれないが、このお母さんがやっている行為は人が嫌がることをひつこくやってしまっている行為である。人が嫌がることをする、そんな行為を子供に教えているのと同じではないのか。

「将来、お前も、人が嫌がることを平気でやれ」と子供に教えているのと同じではないのか。

人が嫌がることを平気でする親に育てられた子供は、人が嫌がることを平気でする人間になるに決まっているではないか。
このお母さんは、「人が嫌がることを平気でする人間になれ」と、子供の耳元でつぶやいているのと同じではないのか。

お母さんが、「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」 と、発した言葉は、子供には

「人が嫌がることを平気でする人間になれ」と、子供には、そんな呪文のような耳鳴りにしか聞こないのである。

自分は人が嫌がることをする人間になりたくない。そんな人間になりたくない。そんな人間になったら、死しか待っていない。
だから、だから、「うるせー ! クソババアぁああ!」と発しているのではないか、
「自分は死にたくない!」と発しているのではないか。
「自分は死にたくない、誰か助けてくれ!」と、叫んでいるのではないのか?
近くに他人がいるのが分かっていて、「うるせー ! クソババアぁああ!」と発し、母親に恥をかかせようとするのは、自慰行為を浴びせられいることに対する復習と、助けて欲しいというSOSである。
この子は母親に憎しみを吐き出すことによって、自分を守っているのである。死にたくないという気持ちにしがみついて、安全地帯を死守しているのである。
こういう感性を持っている子には親が心の中で何を考えているのか大方バレているのでる。
心の中で思っていることと、口から出てくる言葉とが食い違っている場合、
そんな無神経な感性の人間がいる空間から一刻も早く逃げ出したいだけなのである。
一見、反抗期に分類されそうなケースだが、それとは全く違っているのだと思う。

こんなケースを最近はあっちゃこっちゃで見るようになってきたというのが自分の率直な感想なのである。

じゃぁどうすればいいのか、決まっているではないか、ほっといてやればいいではないか。
寒くてジャンバーを着るきないの判断は本人に任せればいいではないか。
寒いのにジャンパーを着ないで外出すれば本人が困ることにいなり、そんな風に何度か失敗をすれば、寒暑の区別を考えるようになり、大人みたいに気温を意識するようになるかもしれないし、物事を考えて行動をするように繋がっていくではないか。
失敗させてやればいいではないか。
言葉にする必要のない事柄を言葉にすることを嫌う、そんな感受性の持ち主の子供に対しては、親が口にチャックした回数分だけ、子供は物を考えるようになるに決まっているではないか。
口にチャックすればするだけ、物考える階段を登っていくという理解をなんで持ってやれないのだろうか。
言葉にする必要のないことを言葉にすることを極端に嫌う、そんな子供はたくさん存在しているようである。
たんなる我ままなのではなく、いわゆる感受性の高い子供である。
そういう子は、人の心の語りにしか興味がないのである。
親の口から出てくる、表層的な言葉の向こうにあるインチキな愛情に嘔吐するのである。
母親が、「ジャンンバーは着て行かなくていいの?寒くないの?ん?」 と発すればするほど、この子供は思考を停止する。
そして憎しみを学習することになる。学習してしまう憎しみがこの子の十字架となる。
この子にとっての学習の反すうは条件反射的な憎しみなのである。それを十字架と言わずとしてなんと言えばいいだろう。
十字架を背負わされた子供は、それにつぶされるか、はねのける力を手に入れるか、極端な二者択一の道しか残されなくなる。
丁半博打の世界に投げ出されるのと同じなのである。
無神経な親の過干渉を嫌う子供は、生きる力が強いのである。死にたくなと思っているだけなのである。
だからなおさら、そんな子に憎しみを教えてはいけないである。
お母さんは「死ね」と言っているのと同じである。子供は「死にたくない」と答えているだけである。
この子はこのお母さんと一緒にいる限り、自立した考え方を持つことから縁遠くなる。
自分で考えていろんな事を採択し行動し、自分の採択した行動には責任を持つ。責任を持つからこそなにがあっても後悔をしない。
不平や不満を言わない、そんな自立した歩むべき道からどんどん縁遠くなっていく。

全て親の子育てゴッコに由来する。
愛情の矛先が自分に向いてしまっている親の子育ては子育てゴッコでしかない。
自立できていない親に育てられた子供はあたりまえだが、自立することができるわけがないのである。

子供に言いたい。親が子育てゴッコをやめてくれない場合、子供は親を捨てて家を出るべきである。
家を出るというのは大変な苦労だろうが、家に居てインチキな愛情を被爆するよりもましであると、そう思う。
もし今すぐ家を出る力がないのであれば、いつか家をでる計画を立てるといい。
その壮大な計画にむかってがんばればいいのではないか。
親の力を借りないで生きていくことを想定していろんな知恵を身につけて欲しい。
そのために今一生懸命いろんなことを勉強して欲しい。
もし親もとでそのまま勉強できるもんなら、図々しい気持ちでもって、そのまま勉強して欲しい。
いつか行動を起こすその時まで、虎視眈々と計画を練って欲しい。それくらい図々しくならなければ、一人では生きていけないのだ。
だから早まらないで、じっくりとこの問題に取り組んで欲しい。
実は良い親ほど、親を捨てるくらいの力を子供が身につけて欲しいと思っているものなのだ。
悪い親ほど捨てられたくないと思っている。
だから親を捨てることは悪いことではない。親を捨てるという選択は辛い選択に他ならないのだろうが、その選択も力なんだという切り口で考えてほしい。
自分と感性が合わない親と同居するのは苦痛以外のなにものでもないのかもしれない。
でもそのことをいろんな問題がある中の一つの問題として捕らえて欲しい。
この問題をどうやって解決するかという視点で冷静に考えて取り組んで欲しい。最終的には家を出ればいいのである。
子育てごっこをしている親から本当の愛情を引き出すのは残念ながら難しいのかもしれない。
もし無理だとわかったら、そこで立ち止まっていないで、将来に興味を向けて欲しい。
親をあきらめることで楽になり、何か光が見えてくるなら、それは君が一つ大人の階段を登り始めたと言えるのではないか。

 子供を育てるのが上手な人々は確実にこの世に存在していると思う。
その人々は教育論をがんばって語る人間達の中にいるような気がしないし、宗教家の中にいるような気もしない。
世を捨てたような虚無的な考え方を持ったどっかのお坊さんが現代の親と子について語る言葉の節々に、違和感しか感じないのは自分だけなのだろうか。
自分の子供がいじめられることを、学校や人や社会のせいにして、拳を握って仮想敵に向かって口角泡を飛ばし熱弁する親の姿に、辟易とするのは自分だけでないはずである 。
教育を壇上から語る人のその人自身の子供さんは本当に自分の好きな事を見つけられているのだろうか。
見つけられなくて泣いていないだろうか?

子供を育てるということはそんなに難しいことでないはずである。
おそらく、古今東西、そんなに難しいものではなく、大人が勝手に問題を複雑にさせているだけではないのか。
我々は「子供を育てるのが上手な人々」のマネをすればいいだけではないのか?
人の上手さを、万歳して受け入れればいいのである。人の能力をマネさせてもらえばいいだけである。

誰がうまいのか。

簡単ではないか、子供を見れば分かるではないか。
子供を見ればその親が「子供を育てるのが上手な人々」なのか、すぐ見分けがつくのではないか。
そう考えると、子育ての先生は我々のごくごく身近にゴロゴロしていることになる。
しかし子供を育てるのが上手な人々の口は堅いのである。
子供を育てるのが上手な人ほど、謙虚だし、自分の考え方を人に臆面もなく披露するという、そんなはしたない行いは決してしないだろうし、ましてやよっぽど仲の良い人間に対してでなければ子供のツボというのものを教えてくれないだろう。

方法は自分達がその人達の仲間にしてもらい、
友達にしてもらい、なんでもざっくばらんに話を出来る関係をこしらえることしかないのである。
そのためには胸襟を開かなければならない。プライドを捨てなければならない。
そしてそれ以前に、親自身のコミュニケーション傷害を克服してからでなければならない。
例えの話だが、感傷に流されてものを伝えてないだろうか、ドラマの主人公のセリフのような事を言っていないだろうか、捨てゼリフを人にぶつけるクセを持っていないだろうか、どっかで聞いたことのある意見を自分の意見として述べていないだろうか、役者でもないのに演出効果を交えて表現していないだろうか、人の悪口を言っていないだろうか、不平、不満ばかり述べていないだろうか、自分のことばかり主張していないだろうか。
大変不遜な言い方かもしれないが、上記のような例が大人のコミュニケーション傷害の一例であると自分は思っている。

しっかりした気持ちを持っていない人程、子育ては自ずと慰みものになってしまう。
ゆえに子供の言葉を奪う虐待をやめてくれないのである。
言葉を奪う行為は言葉の虐待である。いわゆる一種の言葉の暴力と言っていいのだろう。
自分はよく気がつく人間だと勘違いしている人間にこのタイプの人が多くいるように思う。
口にチャックし、何もせず、根気よく黙って自分の正体を消し、待ちの姿勢をとれるくらい気のつく親が本当に気のつく親なのではないのか。
大変失礼かもしれないが、また偏見だとかなりの反感を煽ってしまうのかもしれないのだが、
夫婦仲が悪いお母さんやフラフラしたシングルママさんにこの例が多いように思う。
そして共通に感じるのは母親の得もいわれぬ さびしさである。
世の中の弱者の代表格であるシングルママさんの悪口を書き込んで ただで済むとは思っていないが、恐縮だが、実際そう思うので仕方がない。
シングルさんでいえば片親生活がまるで劇場的なシチュエーションでもあるかのように解釈し、きちんと地に足が着いていないようなフラフラしたお母さんををたくさん見てきたように思う。
片親生活はいまや何もめずらしいことではない。
むしろ少数派と言えなくなってきているし、卑下する必要もなにもないし、両親(りょうおや)には両親のメリットがあるし、片親は片親のメリットを最大限生かした生活形態を確立すればいいだけの話である。
片親は決して不幸な生活形態ではない。
経済的に恵まれない環境だとしたら、だとしたら、そんな環境を子育てのために逆に善用すればいいだけではないか。
お金が無いという環境は創意工夫を教える絶好のチャンスであり、
物を大切にすることを誰よりも説得力でもって伝えることができるし、贅沢をしないということと吝嗇、お金のありがたみと拝金主義の微妙な狭間をリアリスティックなまでに身を持って教えられる。
一生懸命、ある時にはおもしろおかしくそれを説明できる。
経済的に恵まれていない環境というものは、「人間はこころざし次第なのだ」ということを子供に教えていく最高のスペクタクルではないだろうか。
子供にはお金がかかるのでる。なので一般の家庭でピーピーした生活になるのは、当たり前のことではないか。

貧乏万歳ではないか。

要は親のこころざし次第である。そんなことは言うまでもないだろう。
旦那さんと不仲なお母さんにも言いたい。
子供には気が付かれないで良い親を演じられていると安心している仮面夫婦の親に言いたい。
夫婦の仲がいいかどうかは子供が一番よく知っている。気が付かない振りをしてくれているだけである。
当たり前である、子供は善意の第三者だからである。
己の不幸を嘆く親に子育てされる子供こそが不幸なのである。不幸を嘆く親の子育ては親の慰みでしかない。
慰みでしかないため子供は言葉を奪われるのである。そして子供はコミュニケーション傷害になる。

フラフラした親よ、しっかりして欲しいのである。

余計なお世話かもしれないが、地に足の着いていない物事の考え方のとばっちりは子供が全て被爆することになる。
バーチャルな親の不幸を本当の不幸として子供が十字架のように背負うことになることを、そこのところをよく考えて欲しい。
慰みとしての子育てを施されている子供は今もクラスで理由もわからず苦しみに追いやられている。
その子供達の将来を想像して欲しい。
体の自由が利かない人間が、賢明にリハビリをしなければ社会復帰できない姿、
そんな自分の子供の姿をどうか想像して欲しいのである。

以上、本題から とりとめも無く、それてしまいました。
私自身の子供や子育てを棚に上げてしまい、長々と書き込んでしまいました。それに関しては本当に申し訳ないと思います。
後半はほとんどグチみたいになってしまいました。相すみません。
この書き込みは自分で自分の喉元につきつけた刃(やいば)となるでしょう。

娘との生活は一段落というよりも、これからが本番だという気がします。
背水の陣で子育でにのぞもうと思っている程、肩に力が入っている訳ではないのですが、
少しでも、自分を追い込んで自分を鼓舞したくて、書き込みをしてしまったような気がします。








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